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沿革

年号 歩み トピックス
1950年(昭和25年) 羽立羽毛研究所としてバドミントンのシャトルコックの研究を開始。シャトルコックを鳥の羽根で製造する方法を試行錯誤しながら、当時としては新素材にあたるプラスチックを使って一体成形することを考えついた。 東京農大での卒業論文で「鳥の羽根の利用方法」について研究してたところイギリス発祥のバドミントンというスポーツがあることを知った。
■時代背景
社長ひとこと戦後復興の中で、生活で精一杯趣味、レジャーの余裕なく、バドミントンはまだ知られていなかった。
1951年(昭和26年) シャトルコックの特許4件、実用新案23件申請、取得。
優秀発明通産大臣賞を受賞する。
軽いシャトルコックを鳥の羽根と同じように、いかにゆっくり、まっすぐに飛ばせるか、形状、構造や素材を研究。
■時代背景
日米安全保障条約
1952年(昭和27年) プラスチックのシャトルコックを量産開始。
商品名:ピーエルマン
PLマンのPLとはParadice Lost:の略。Paradice Lostとは失楽園という意味で希望を失った人という意味。
失敗の連続でどん底にあった時に完成したシャトルコックであったということで命名された。
1956年(昭和31年) 社名を羽立工業株式会社と変更
本社家屋建設
木製の羽子板と羽根も開発したが販売は不振で山のような在庫は薪になった。
英国カールトン社とプラスチックシャトルコックの特許裁判始まる。特許の重要性を認識し、その後シャトルコック及バドミントンラケットに関する多数の特許申請/取得
社長ひとこと
イギリスの類似特許と特許裁判に発展.東京裁判の日本側弁護団長であった清瀬一郎さんに弁護を依頼、日本のスポーツメーカー大手の美津濃(現:ミズノ)を始め大手スポーツ卸の全面協力の元、先の戦争を彷彿させる日英の戦いとなりました。
プラスチックのシャトルコック(特許)の全国生産量の95%を生産(年間1000万ヶ) 日本対英国の裁判になった御陰でスポーツ業界では当社は有名になり、バドミントンというスポーツが知られる事になると同時にiシャトルコックが売れる大きなきっかけとなる。
■時代背景
手軽に楽しめる庶民のレジャーとしてバドミントンが普及し始めた。
木製バドミントンラケットの生産開始。
バドミントンラケットに関する特許多数取得
 
1961年(昭和36年) 英国カールトン社との特許裁判和解、カールトン社と技術提携する。(和解は結果としては勝利と同じであった) スポーツ問屋のお客様を会社前の汽船場から社員全員でお見送り
■時代背景
高度成長
(1960年から10年間)
1964年(昭和39年) バドミントンラケットやシャトルコックの米国、カナダ、オーストラリア、欧州への輸出始まる。 高度成長全盛期へ
東京オリンピック開催
■時代背景
東京オリンピック開催
1965年(昭和40年) 木製バドミントンラケットの新工場 建設
台湾にバドミントンラケット専用工場を設立
 
1966年(昭和41年) ブロー成形工場建設(現在のブロー工場)
スウェーデンから2色ブロー成形機(特許)を導入し、出光石油化学の材料を使ってユニボールの生産販売開始
社長ひとこと
楽しく遊ぶ子供のために。安く気軽に遊べるレジャー用品の開発に特化。2色ボールを商品化したのですが・・・
数年後に、空気がぬけてしまうという問題で大返品となり販売を中止することになってしまいました・・・。
1967年(昭和42年) 射出成形工場建設
ラケット工場増築
 
1970年(昭和45年) 回転成形機導入。
ドッジボール等を生産
 
■時代背景
大阪万博
1973年(昭和48年) シャトルコック関連特許切れ。台湾から安いシャトルが入ってきて売上が減少。射出成形機、ブロー成形機を自動車部品の製造に振り替える。
バドミントンラケットが木製から金属フレーム製に替わり木製ラケットが販売不振に。
木工工場が開店休業になった。バドミントンラケットは、アルミ製からその後FRPへと素材革命が起こり、その後はヨネックス社の独壇場に。
■時代背景
オイルショック
1977年(昭和52年) 二重壁ブロー成形特許の専用実施権を取得。ダブルブローケースがヤマハのピアニカに採用され大ヒットとなる。 スポーツ用品の販売不振により、新事業を模索。出光石油化学から寺岡氏を紹介されダブルブロー技術を導入することになった。
1979年(昭和54年) Wブロー成形工場として羽立化工株式会社を分離独立設立、新工場建設
1981年(昭和56年) 羽立化工第2工場竣工 120mm大型ブロー成形機を導入し、矢崎の湯ワイターの250L タンクを成形 スポーツ用品から工業製品事業への転換を図るべく少しムリをしていたので、過剰投資気味で資金繰りは厳しい状況であった
1982年(昭和57年) 羽立工業で大型真空成形機導入。
大型ハウジング部品製造   
社長ひとこと
この頃から、スポーツ用品はブランド力が必須の時代になり、安物路線できた当社は 太刀打ちできず、高齢者スポーツであるゲートボールならブランドよりも価格や品質で勝負できると考え、参入しました。
羽立工業、ゲートボール市場に参入。ボール、スティック等で特許を取得。ラケット工場をゲートボール工場に変更、塗装ラインを設置
1983年(昭和59年) 羽立化工でダブルブロー成形による日本初の自動車のブローバンパー量産化。 日本発のブローバンパーは三菱油化の協力の元、専用のブロー材料を開発することで成功した。
■時代背景
プラザ合意(1985年9月)
急激な円高へ
1987年(昭和62年) ヤマハの木製テニスラケット生産 テニスラケットはアルミと木製の時代でありヤマハの本木の薄皮を表面に貼る技術でテニスラケットを量産するも、一時的でそその後製造は台湾に移管、素材もカーボンに替わる。
1989年(平成元年) 羽立工業で安全竹刀でグッドデザイン商品選定、竹刀の先革、割竹の製造方法で特許取得 竹刀の製造販売に乗り出すも、壊れない竹刀では武道業者の売上が落ちると言われ、販路が開拓に困難を極め数年後に撤退する。 羽立化工、羽立工業の代表取締役社長に中野幸男が就任       
社長ひとこと
資金繰りがショートする経営危機から脱却し明るい兆しが見えてきたのがこの頃です。
■時代背景
バブル崩壊(平成2年)、「ベルリンの壁」崩壊、ソ連解体、冷戦崩壊
1992年(平成4年) 羽立化工第2工場増築、大型ブロー成形機導入  
1993年(平成5年) 中村豊会長 知事褒賞・研究開発功労者を受賞
シャワーヘルパー(介護用シャワー装置)を開発、介護浴槽分野に進出。
 
1994年(平成6年) 羽立化工スーパーブロー成形技術の実施権取得
1995年(平成7年) 120mm大型スーパーブロー成形専用成形機導入  
■時代背景
阪神淡路大震災、オウム真理教事件
1996年(平成8年) ユニットバス天井にスーパーブロー成形が採用
タイに現地法人THAI HATACHI CO.,LTD.を設立 翌年からのアジア通貨危機で2000まで休眠状態2001年から業務を再スタートし。自動車関連部品(エアダクト、タンク、熱硬化性樹脂成形(プーリーカム)を成形
1997年(平成9年) 羽立化工第3工場竣工
羽立工業のスポーツ事業部がグラウンドゴルフ市場に参入
ゲートボール人気に陰りがでてきた一方で愛好者が増加しつつあったグラウンドゴルフ市場に参入すべく、当時アシックス社が普及の為につくったグラウンドゴルフ協会へ新規のメーカー参入を促し認可された。
■時代背景
アジア通貨危機
2001年(平成13年) 羽立化工、羽立工業の代表取締役社長に中村哲也が就任。  
2003年(平成15年) 135MM超大型ブロー成形機導入(羽立化工)
ISO9001取得
2004年(平成16年) 羽立化工金型倉庫竣工
羽立工業・福祉市場参入 福祉施設向けレクリエーションとして認知症予防ゲーム、レクリエーションキットを提案。ダイレクトメールを施設向けに配布
2005年(平成17年) 羽立化工経営革新計画静岡県から承認  
2006年(平成18年) スポイラーのサンディング工程の自動化に成功
2007年(平成19年) ブロー成形のバリ仕上のレーザー加工による自動化に成功
羽立工業大型射出成形機工場竣工
羽立工業・健康市場参入。 若い年代層に向けた健康ソリューション商品の開発。道具+ソフト付き
2008年(平成20年) 羽立工業にて1300t 2色射出成形機導入。

認知症予防ツール「脳げんき。」の研究で脳幹連学会へ参加。
静岡大学と共同で高齢者の体力測定「自立体力テスト」の共同研究開始
羽立工業・ウォーキング市場参入。 ノルディックウォーキングを柱に、よりよいウォーキングを。普及団体、流通、消費者にウォーキングライフスタイル提案
■時代背景
サブプライム問題から始まる。
金融危機で世界同時不況
2009年(平成21年) 関東経済産業局から新連携計画「ガスバリア性の高い燃料タンクの開発と事業化」が認定される